知と無知を積み重ねた境界線

書くことがないにも関わらず、ブログを始めてしまったからには何かを書かなければいけないというある種の強迫観念に苛まれてる今日この頃。0から1を生み出すのはすごーく体力を消費してしまうと思うので昔読んだ本の話でもしようと思ってる。

 

初投稿の題材として選ばれた栄えある一冊は、女性の胸部の膨らみに関して書かれた意欲作「乳房曲線の推移」。そんな本はない。安心してほしい。嘘です。もう嘘はつかないって決めた。あの日の過ちを繰り返してはいけない。なにそれ。まだブログという制度に慣れてない故の迷走やわ。ただめっちゃ余談だけど、露出の多い服よりセーターとかの方が魅力的に感じてしまうことあるよね。特にあのおっぱいの感じ。男性読者の方はきっと深い納得の表情をしていると思う。あの理由をいろいろ調べたり考察したりしながら自分なりに考えてみたんよ。

 

セーターとTシャツで比べたらすごくわかりやすいのだけど、セーターはすごく胸のラインが明確なのよな。胸部の形状、その膨らみに密着するがゆえに視覚的に立体として捉え易いのよな。その一方Tシャツは立体として認識するための要素がセーターに比べて明らかに少ない。セーターは女性胸部の大きさを捉え易くするだけであって、大きい小さいに関わらずそのラインを浮き彫りにするのだから、別にセーターを着たからといっておっぱいが大きくなるとかそんなんじゃない。語弊を恐れずに言うなら魅力的に「錯覚」させてるに過ぎないのだと思う。

 

でも正直思う。セーターでもTシャツでも女の子が着てたら可愛いじゃんって。錯覚とか関係なく可愛いじゃんって。こんなことを言ってたら昔読んだある本のことを思い出してきた。すごく真面目に論じてるにも関わらず結論が悪ふざけとしか思えなかった、あの本を。


記憶というのは都合が良いのか悪いのか、今となってもその内容を昨日読んだばかりかのような鮮明さで思い出せるのに、本のタイトルは思い出せない。こういった感覚は夢と似ている。朝起きた時には頭にその枠組みがしっかりと残ってるのに、中身の絵がぼやけて見えない。どんな絵だったかなと考えてるうちにその枠組みすらも薄れて、最後には夢を見たことなんて忘れてしまう

 

幸いにも今回紹介したい本は現実の代物だから夢のようにすべて忘れたりはしていない。内容は詳細まで覚えているのに、ただタイトルがどうしても思い出せない。内容はすごーく印象に残ってるのに、タイトルだけが思い出せない。内容は至極単純、それは「可愛い」について。本のタイトルも仮に『可愛いについて(仮)』にしとこうと思う。思い出しながらその本のことでも書いて、最初の記事にでもしようかなって思う。

 

文庫本サイズだったと思う。学術書や専門書というよりかは、一般向けの入門書的立ち位置。この本で何かを解決するのではなく、この本を皮切りにいろいろなアプローチで「可愛い」という文化、日本人独特の感性、人間の持つ普遍的な何かについて研究をしてほしい。まずはそのための興味をもってほしい、といった内容だったはず。だから図書館でこの本を見つけた時もその分類が言語だったか社会だったか何だったかは正直忘れてしまった。おそらく本気で「可愛い」について研究してる人からしたら物足りないどころかツッコミ所満載の一冊だったのかもしれないけれど、それでも専門分野じゃないからか、ただ自分が単純なだけなのかわからないけれど、個人的には面白い本だなと思った。


 可愛いっていうのは英語でもKawaiiと表現する日本特有の文化現象らしい。とは言えもちろん英語にもcuteだったりpretty、gorgeousといった可愛さを褒めたええる表現はたくさんある。それにも関わらず日本語で言うところの「可愛い」を英訳しようとしたら、当てはまる単語は先に挙げたどれでもなく、"Kawaii"らしい。本を読むより昔、ネイティブの先生に英語を教わっていた時に同じことを聞いた気がしたので、それ自体は別段驚かなかった。

でも確かに、ふと改めて日常のアレやコレやを思い出してみると、可愛いという言葉の汎用性はどの英単語にも属さないものである気がするって読んだ当時に思った。使い分けもなくただ一言、男女生命非生命有機物無機物を問わずに、「可愛い」で済んでしまう魔法の言葉。髪を切ってきた女の子に可愛いね。段ボールに入り込んだ猫を見て可愛いね。小さいリンゴのことを可愛いリンゴと言ったりもする。ただこんな風にあまりにも当たり前に「可愛い」を使っているから、由来についてわざわざ考えたことは、その当時の僕にはなかった。

 

『可愛いについて(仮)』の著者は由来について、日本古来からの女性の在り方を挙げていた気がする。

大和撫子という言葉を聞いたことはあるだろうか。日本女性の清楚な美しさを表した言葉であり、その起源は江戸時代にまで遡るらしい。江戸幕府と清。正式な国交は当時なかったようだけど何かと繋がりはあったらしい。詳細はもう忘れてしまったけれど。

ただその清で当時の東政録司が編纂した『東国列伝』に大和(国)撫子という言葉が使われた一文があるらしい。大和国撫子可愛~みたいな内容だったと思う。さすがに一文すべては忘れてしまったけど。

詳しい解釈についても忘れたので割愛するけど、ここでは「可愛」と日本の当時の女性を褒め称えてる。この文章が転じて現在の大和撫子という言葉になっている、と大雑把にまとめるとそういった内容だったはず詳しくは忘れてしまったけど。

もしかしたら元々日本サイドにそういった言葉があって、それをそのまま記載してただけって説も書いてた気がするけど正直忘れた。でも大和撫子ってすごい日本っぽい言葉だしね。撫でるように愛でたい子。撫子。

 

そして可愛いの由来も無論ここにでてくる「可愛」。撫子と同じような意味と考えてよさそうだ。

「可愛」を現代風に訳すのであれば「愛するべきもの」という意味。しかし当時の東政録司が何を理由に日本女性を「愛するべきもの」と表現したのかは定かではないらしい。ただ 可愛い=愛するべきもの と考えたら、その使い勝手の良さも納得する。自分が好感を持てるものには何でも「可愛い」と言えば間違いではないのだから。可愛いとは魔法の言葉みたいなものだ。可愛いという魔法のコトバ。魔法のコトバといえばスピッツ。アーティストで一番スピッツが好き。それは嘘。もう嘘はつかないって決めた。これ以上悲しみの連鎖を続けてはいけない。本当の悲しみっていうのは嘘をつかれた側でもついた側でもない。嘘をつかなければいけないっていうその状況にあるんだ。それだけは忘れないでほしい。この先つらいことがあっても、苦しいことがあっても、嘘に逃げないでほしい。漆黒の闇が彼方へと汝を誘えども心の内の暗雲を切り裂き雷雲轟く一筋の光の矢と成、敵を貫け。

 

 

閑話休題、こういった形で、『可愛いについて(仮)』はその後も歴史、文化、言語、心理学等々、様々なアプローチから可愛いについて論じていたと思う。さすが入門書、広く浅く。

ただ本当に印象に残っているのはそういった真面目な話ではなく、確かそう。あとがきだったと思う。そこで筆者は可愛いとは日本特有の表現であるのは前述の通りだが、では今の私たちにとって「可愛い」とは何なのであろうか?という問いを投げかける。そしてそれについて筆者は「女の子であること」が可愛さであると言っていた。

 

女の子は素敵であり、女の子は気分屋さんであり、女の子はいい匂いがし、女の子はわがままであり、女の子は笑顔が輝いており、女の子は心を癒してくれる。じゃあ可愛くない子にも同じこと言えるのか?という反対意見は当然出てくる。それも1つの意見であるがよく考えて欲しい、と筆者は言う。筆者はこう続ける。君が思う可愛くない子は本当に可愛くないか?それは君がその子の可愛さに気づいてないだけではないか?もう一度よく考えて欲しい。女の子の可愛さを見つけてあげるのが男の子ってもんだろう?女の子が可愛くないのを女の子のせいにしてはいけない、本当に君はその女の子に対して全力を尽くせたか?そう考えた時おのずと答えはでてくるであろう、と。

 

筆者はつまりこう言いたいらいい。女の子は女の子であるからして可愛い。「可愛いについて」論じている著者が、その可愛いの定義を男の自分たちが論じて定める意味はないとまとめている。可愛いは人それぞれで定義なんてないのだから、と。いわばこの本は入門書風プロの悪ふざけ。著者も社会学が専門とかだった気がするからちゃんとしたその道のプロ。こういったプロの悪ふざけみたいなのが好き。プロのアーティストが楽器を弾いてみたや、歌を歌ってみたといった動画をあげたりしている。本気も遊びも全力でやる、そんなプロの人たちが好きです。プロじゃなくても好きです。適当にふざけないで、全力でふざけるって、なんかよくないですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『可愛いについて(仮)』という架空の本について適当に書いた。もう嘘はつかないって決めた。(2度ある事は3度ある)