高熱を和らげる微熱

 僕には高校生まで妹がいた。おかしな言い方と思うかもしれない。ご存じの通り僕は一人っ子である。親が再婚したわけでも、隠し子がいたわけでもない。妹のような存在がいたのだ。アニメや漫画のようにお兄ちゃんなんて親しみのある呼び名はしてくれなかったけれど、こんな僕に懐いてくれる素敵な子だった。

 
 たしか年は2つ下だったかと思う。「思う」としか言えないのも理由がある。僕らは2人で遊ぶ時に決して個人的な話を口にしなかったからだ。故に年齢を感じさせる話題が出なかったのだ。悩み事や愚痴、自身の決めた事や将来についてなど、個人的な問題はえてして年齢的な話題となる。そういったことを話さないという約束があったわけでも、揉め事があったわけでもない。ただ2人になると決まって話すのはテレビの話や漫画の話、好きなアーティストの新譜の話。そういった第三者が簡単に介入してこれそうな何気ない会話だった。
 
 先に断っておくが仲が悪かったとか、そういうわけではない。むしろ仲は良かった。ただありふれた会話が楽しすぎたのだと思う。友達と呼ぶには親しすぎて、恋人と呼ぶには余所余所しすぎる。そんな炭酸泉のような生ぬるい日常が大変心地よかった。
 
 僕が高校3年生のある時、まだ入学したての彼女が同じクラスの男子に告白されたらしい。短髪によく日焼けした肌が似合う、クラスのリーダー的存在、ムード―メーカー、イケメン、所謂そういうやつからの告白だ。加えて言うのであれば、どうやら彼女とも睦まじく過ごしていたらしい。結果はイケメンの玉砕。僕はどうしてもその理由が気になり、そんな優良物件を見逃した理由を聞いてしまった。彼女は少し驚いた顔をして、渋々「だって今みたいに会えなくなるじゃん。」と答えてくれた。
 
 僕にとっての妹がいなくなったのはこの時だったと思う。今思い返しても単純な自分の心に辟易してしまう。思わせぶりな発言に僕の心は小さく、それでいて大きく揺れ動いた。その日から僕は彼女を「妹」ではなく「女」としてみるようになったのだと思う。個人的な話に触れてしまったが故か、彼女は少し不機嫌そうな顔をしていた。だから僕はこれ以上の言及はしなかった。僕の肩書が高校生から大学生となっても特に関係は変わらず、いつも通りの毎日だった。僕の心が変わってもそんなことは関係なく、きっとこんな毎日がずっと続くと思っていた。
 
 彼女と過ごすもう何度目か数えるのすら億劫な春。彼女は何のためらいもなく僕と同じ大学に入学した。成績優秀者の特待生として入学したらしく、それほど賢いのであればもっと上の大学を狙えたのではないかとも思ったが、もちろんそんなことは彼女へ聞かなかった。不機嫌になる彼女は見たくないし、わかったうえで聞くような意地悪さは僕の標準装備ではない。だから大学生となった彼女と初めて話した話題は学食の唐揚げについてだった気がする。2週間はこの話題で盛り上がっていた。「こんな話題で盛り上がれるのは君くらいだよ。」と彼女が笑いすぎて目に涙を浮かべながら言っていた。僕の心は揺れ動かなかった。もうすでに揺れ動かないほどに好きだった。
 
 彼女が大学に入って2度目の春、僕らは岡山へと旅行へ行くことになった。僕の卒業旅行という名目だった気がする。どちらが誘ったわけでもなく、ただ昼食を一緒に取るかのような軽い気持ちで旅行の段取りが決まっていった。行く場所の候補を探していると砂湯という混浴露天風呂があることを知った。彼女は絶対行かないと言っていた。ただ無料だということを伝えると「無料なら行かないと損でしょ。」という謎自論を掲げだした。僕は彼女の自論を全力で支持した。他意はない。
 
 レンタカー屋で車を借りて岡山へ着くまではいつも通りだった。流行りのバンドの曲を流してああだこうだって言いあい、静かになったと思ったら助手席で彼女は眠りだし、そんな彼女を起こさないようにと出来るだけ柔らかくゆっくりとブレーキを踏んだり、そんな特筆すべきことのない、一言で表すと、幸せな時間だった。
 
 宿に着いて、受付のフロント横にあるお店で適当な晩御飯を済ました僕らは、コンビニでお酒とつまみを買って、部屋でひたすらだらだらしていた。だから砂湯へ着いた頃には時刻は深夜になっていた。ドキドキした気持ちを悟られないように適当な会話をしながら夜の砂利道を歩いた。砂利道を歩く音があってよかった。無ければこの胸の鼓動が君に聞こえてしまっていたかもしれない。なんて彼女に冗談っぽく言うと、呆れた表情をしながら「何期待してるんだか変態。」と言われた。さらにドキドキしたのは言うまでもない。
 
 24時間無料で開放されているとはいえ、大学生の特権でその日は平日、さすがに人はいなかった。脱衣所は男女で区切られており、「覗いたら殴るからね。」という言葉を残して彼女は脱衣所に入っていった。静かすぎる夜が僕を変な気持ちにさせた。耳を澄ませば彼女の服を脱ぐ音、布のこすりあう音が聞こえてきそうな、そんな気さえしてきた。覗いても殴られるだけなら覗くデメリットはいったいなんなのだ。そもそもあれはネタフリではなかったのか。鶴の恩返しもおじいさんは鶴の部屋を覗いたことがきっかけで鶴と仲良くなったではないか。倫理と道徳と性的好奇心で頭が混乱していると、バスタオルを身にまとった彼女が脱衣所から出てきた。布越しの仄かな果実を想像してしまったゆえか、彼女からはどこか甘い匂いもして、僕は急に恥ずかしくなり「素晴らしいね。」なんて言ってしまった。彼女は照れてる僕を小突きながら「本当変態。」なんていって笑っていた。湯舟につかって話した内容は途中までいつも通りだった。あの星は何座だとか、明日はどこに行こうかとか、そしていくつかの話が終わって、夜空の星々が綺麗だったからか、それとも宿で飲んだお酒が妙に美味しかったからか、理由はよくわからないが、僕は彼女に告白した。何の飾り気もないシンプルな言葉だったと思う。それだけで十分だと思ったからだ。
 
 彼女は少し考えて、火照った顔で、「今みたいに会えなくなるじゃん。」と言って笑った。恐らく振られたのだと思う。でもどうしてか不思議と悲しくはなかった。だから僕も「確かにね」と言って笑った。その後の旅行も、卒業までも僕らの生ぬるい関係は変わることはなかった。それに不思議といつかこんな関係が続いた先に、僕の気持ちに応えてもらえる日がくると思っていた。
 
 今までずっと一緒だった僕らも、僕が卒業してからは会う回数が自然と減ってきた。何が理由かはわからない。でもある時を境に二人で会うことはなくなった気がする。今までもこういった時期がなかったわけではないから別に何も思わなかった。もちろん寂しかったのは言うまでもない。
 
 そんな物足りない日々が続いていたある日、久しぶりに彼女と会った。彼女はまるで昨日会ったばかりかのように話しかけてきて、そんないつかの当たり前が大変心地よかった。適当な喫茶店に入ったのち、彼女は自身の就職活動について話し出した。内定がもらえない。エントリーシートが面倒くさい。合同説明会でナンパされた。将来はどうしたらいいかなといった相談も受けた。僕はいつも通り笑顔で話を聞きながら相談には真摯に答えてあげた。ただ一杯目のコーヒーを飲み終わったころ、なんとなく僕は気づいてしまった。でもその気持ちには気づいてはいけない気がした。それなのに格好つけて飲んでいたブラックコーヒーの苦さが嫌でも僕にそれを気付かせてしまった。いつか感じていたあの炭酸泉のような生ぬるい時間はもうそこにはなかった。
僕はもちろん彼女に答え合わせはしなかった。だってそんなことを聞いたら彼女が不機嫌になってしまうのを、僕は知っていたからだ。
 
 彼女はこのあと予定があるからといって喫茶店を出た。僕は別れ際に「こんど彼氏を紹介してよ。」と冗談半分に言った。彼女は不機嫌そうな顔一つせず笑顔で「機会があったらね。」と言った。意地悪のつもりだったのに、僕は知っているようで何も知らなかったのかもしれない。
 
 その日の帰りの電車はやけに長く感じた。僕はイヤホンをつけて音楽も流さずに、ただただ篭り気味の電車の音を聞いていた。最高速で流れていく街並みを眺めながら、思ってたより早く暗くなる空に、季節の変わり目を感じながら。電車がひとつ、またひとつと駅に到着するにつれて、彼女と埋まらない距離が出来ていくように感じて、僕はどうすることもできなかった。いったいどこで間違えたのだろうか、いっそのことあのイケメンと付き合ってくれればよかったのに、そんなことさえ思いながら、溢れそうな気持ちを抑える蓋のようなものを探し続けていた。間違っていたなんて考えるのすらおかしいのかもしれない。間違いというのは正解があって初めて生まれるのだから。 もしかするとこれが正解だったのかもしれない。彼女と僕はこれからもきっと友達でいられるだろう。ただ普通の友達として。電車はいつも通り僕を家へと運んでいく。いつかの砂湯で見た彼女の火照った顔が忘れられなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 だからその日僕は帰ってから熱心に自らのアルトバイエルンシャウエッセンした。(読者に結末を委ねる最も綺麗な終わり方)